長崎の永代供養墓│長崎の永代供養墓は平仙寺へお尋ねください ご相談・お問合せはTEL:0957-22-0712

長崎の永代供養墓・平仙寺
平仙寺本堂外観画像

平仙寺の由来

平仙寺外観

当寺の現在地での開山は天正16年(西暦1588年)といわれています。開山は堯珍法師で、堯珍は、もと島原温泉山七百坊惣座主でありました。

天正年中に島原領多以良村其外近隣の耶蘇教徒(キリシタン教徒)が温泉山(雲仙)の堂社仏閣を残らず焼失してしまいました。堯珍は二矢を負って島原領湯江に逃れ、さらに賊徒の来襲を恐れて遂に諫早(当時は伊佐早という)に着き、船越村本坊に住しましたが数年を経て、鼻祖竜造寺家晴公、二代直孝両代の庇護を迎ぎ、平山山平等院平仙寺に安住しました。

のち諫早家代々の安泰と領内安寧の祈祷寺として応分の寺領を与えられ、それより、代々法印住職となり、この間諫早家並びに藩からの寄進とともに諫早藩家老職の早田家からも、薬師寺建立や、この護持のための田畑の寄附などが多く寄せられ繁栄しました。一方、寺伝には比叡山延暦寺の直末にして、末寺には慈眼院と触内四坊(福緊坊、蓮乗坊、長円坊、願成坊)とともに愛宕社、八幡社、祇園社など多くの神社を支配下に置き、諫早藩の祈祷寺として隆盛しましたが、明治維新の神仏分離布告により諫早家の庇護も絶え、末寺の一寺四坊はみな廃絶となり、寺領はことごとく上地されました。さらに祝融の災に見舞われて、旧観に徴することが出来ず茅葺の仮堂でもありました。

さらに追い討ちをかけるように昭和20年の農地解放令によって、すべての田畑も失い、栄枯盛衰を余儀なくしました。時を経て昭和42年第26代亮締師により、旧諫早家の建物を買取り本堂とくりに改築されましたが、古家であったことから、現在職代の昭和59年庫裏等を新築、さらに土地区画整理事業を契機に、位牌堂を備えた会館および山門を新築し現在に至ります。

開山堯珍法師により当代までが27代であります。

九州四十九院薬師霊場第34番札所

九州は古来、日本の大陸への玄関口として首都圏であった奈良や京都に先だって、新しい文物に接する機会にも恵まれていました。

しかしながらいつの間にか、最果てが西果てとなって都を遠く離れた寂しい都びたところとのイメージが作り出されてしまいました。

かつては、数多くの求道者たちがこの地に留まり、やがて西の国をめざして旅立ちました。そして帰途、都への道すがら命がけで求めた新しい実りを随所に遺されました。九州各地には、それらの足跡が点在しております。

薬師信仰は、人々の病の苦しみからの解脱を願う、仏教伝来とともに根づいた切実にして身近な信仰であります。この薬師信仰と九州ならではの仏刹を一体化したのが「九州四十九院薬師霊場会」で平仙寺は第34番札所にあたります。

九州四十九院薬師霊場会について
平仙寺外観